林浩のコミュニケーション用のブログとして開設しました。


by pasthh





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先日までこのブログを更新する度にその旨をここに帰していましたが、この度それをすべて削除し、新しものを少し残すことにしました。
2018.02.08  林 浩

・2018.02.16 CONTENT[side/main street]に「写真/デジタル写真」を追加しました。
・2018.02.13 CONTENT[昨日思ったこと]に「実は…。」を追加しました。こちらをクリック
・2018.02.10 CONTENT[昨日思ったこと]に「同根三話」を追加しました。こちらをクリック
・2018.02.08 CONTENT[昨日思ったこと]に「ゴミ化(作品篇)02」を追加しました。こちらをクリック


CONTENT
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# by pasthh | 2019-12-31 17:29 | あいさつ | Trackback | Comments(2)

写真/デジタル写真

・写真/デジタル写真

私はそれを見て「三郎おじちゃん…」とつぶやいていた。34歳の頃の記憶と思われる。それが「三郎おじちゃん」ではなく、「栄おじちゃん」であることを教えられても俄かには信じがたく、「戦死」「遺影」「写真」が結びついて定着するのに少し時間がかかったように記憶している。「三郎おじちゃん」と「栄おじちゃん」は兄弟だから似ているということ。「戦争」というものがあって「栄おじちゃん」はそのために死んでいて、もう会うことが出来ないということ。そのような現実の構造を初めて見た写真から学習するのに若干の時間が必要なことは普通に考えてみれば容易に理解できるが、それが絵ではないことを直接的に認識していたことは不思議である。古い記憶であるがゆえに長い時間が与えた調整が介在しているはずだが、それがメディアではなく、具体的な現実の存在するものを見せていたことは確実であると思う。

「写真」は特別な日に近所の写真屋で写して(・・・)もらう(・・・)もの。写真屋のおじさんが機械にかぶせてある黒い布に潜ってピカッとまぶしい光が光ると「写真」が出来るけれど、その時絶対に目をつむってはいけない。

写真屋にあるその大きな機械と親戚の家にある茶色の硬い皮のケースに入っている小さいけれどちょっと重い物は写真機で、それの上側についている小さな金属のボタンを押すと「写真」が出来るらしい。

私が初めて手に入れたカメラは知り合いの質屋から購入した新古品で6万円だった。結婚したばかりの妻が「持参金」で買ってくれた。27歳のときである。写真を初めて見てから自由に撮影が出来るようになるまで20年以上の時間が掛かったことになる。ざっと以上が私の写真体験記である。

写真の経験は撮影という行為以前に写真という物との出会いが先立つ。少なくとも我々の世代にとっては必然的にそうでしかなかった。ややもすれば「描く」という行為が先立つ可能性のある絵画との大きな違いはそこにあると思う。ひとりの人間にとって写真が表現メディアとなるためには何段階かのステップが必要なのである。

就学前の子供が自分のスマホでデジタル写真を撮っている。それは撮影という行為ではなく、その場で見ている画像は写真ではない。彼らがきちんと自分の体験を他人に伝えることが出来るようになった暁には私は彼らと写真の話をしたいと思っている。


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# by pasthh | 2018-02-17 00:44 | side /main street | Trackback | Comments(0)