decrescent
2016年 01月 19日
decrescent 2004.2.25-3.28
熊本市現代美術館現代美術館GⅢvol.12
薔薇 水 石膏 アクリル
全身真っ白の花と「消失」のイメージが結びついたのは2002年。薔薇を漂白しドライフラワーにする事が技術的にどうにか可能だったので、その状態で作品にはしてみたが、もうひとつ納得がいかなかった。乾かしたものは水につけている状態に比べると格段に美しくないのだ。「それなら水につけたままにしておけばいいじゃないか・・・・・・・・。」という友人の当たり前の助言が活路を開いた。人の思考の盲点。盲点は見えないから本当に盲点なのだ。
アクリルの容器の口ギリギリに水を張っておくこと。このことはこの作品の重要なところである。その20分程の仕事のために毎日会場に通い水を足す。そのとき鑑賞者に色々と質問を受けた。答えざるを得ない。作者は会場にいない方がいいに決まっているのだけれど・・・・・・この頃から強くそう思うようになった。
2016年2月の時点でこの作品について語ると-----
この作品の完成度はかなり高いと今でも思っている。「作者は会場にいない方がいい・・・・・・」と強く思った理由はそこにあるのだろう。うまくいった作品は他人の作品のように見える。作者の手を離れるとか、作品が自立するとかいうことはそういうことでもある。
この頃何を考えていたのか確認する為に、この展覧会のアーチストトーク(AG第3号 熊本市現代美術館 2005年11月30日発行)を読み返してみた。やはり、台座の事とARTの定義には触れている。最近折に触れて語っている脇役の大切さやARTの役割が格闘すべき強敵であったとの実感が伺える。私は現在ARTの定義を言葉ではっきり語っているが、この頃はアーティスティックな体験を重要視してARTは定義不能、不要と言っている。多分作品の内容の説明の不能、不要さとARTのそれをごっちゃにしていたような気がする。
「問題を形にすること、言い換えれば問題を客観化して、誰にでも触れることが出来るようにすること。」分かって頂けないときも多々あるが、その適切な例として慈恵病院の「コウノトリのゆりかご」を挙げている。「ART」はジャンルを指す言葉ではない。物事に向かう態度の表現であると思う。