上の文章は37歳の時st.Bavo Catedralを訪れた時の印象を綴ったものである。初めてのヨーロッパ、初めての大聖堂であった故、かなり鮮度の高い感触だったと思うので、今ならどう感じるかは分からないが、信仰が想像力を支えているという思いがこの時の経験を通して自分の中に深く根付いたと思っている。とはいうものの、信仰についてうまく説明できるわけではない。少し無理して抽象的に表現すれば「ある行為に伴う無音の状態」「それをもたらすもの」とでもいうしかない。
刃物をきちんと砥ぐこと、木を直線に削ることなど「それでしかない」ことを目指して仕事をしていると、この無音の状態が訪れることがある。うまくいくことを願うのは当たり前だが、どんなに願ったとしてもこの状態に入り込まなければ失敗する。だから、この状態が訪れるようにすることが大切だけれど、どうすればこうなるか、分かっているわけではない。集中するということに似ているが、ちょっと違うように思う。客観的な提示や説明は不可能だと思うし、極めて個人的なことでしかないので実感を伝えることは難しい。だから、この「無音の状態」になることは信仰がもたらすものではないかと思っている。
絶対直線の定規や絶対平面の金盤を見ていると、「そちら」側に惹かれているような感触がある。メトロノームの音を聞いてもそうなるときがある。たぶんこれらをきちんとつくることを目指した人達の中にも、そんな信仰のようなものがあったのではないかと思っている。証明はできないけれど、確実にあると思っている。
信仰がなければ出来ない仕事があると思う。それが現実化することが「信仰がかたちなる」ことである。上手な説明は無理だけれど、「信仰を形にする」こととは全く別次元のことであるということだけは、はっきり言える。「信仰を形にした」物は世の中に山ほどある。枚挙する必要もないと思うが、信仰することの困難さがそうさせるのだと思う。信仰を形にした物の存在は信仰を誤解させ歪める危険性をはらむ。それ(信仰を形にした物)を物として維持することで信仰を維持しているかのような錯覚をもたらすからである。
信仰するとは個人の内的な状態である。他人に伝えることは不可能で自分でもわかっているかどうか怪しい。不安定で曖昧で客観的な確実さから一番遠いことのように思える。また、すべての人間が信仰を持てるかどうかもわからない。私は只その無音の状態を信仰と呼んでいるに過ぎないのだから。